創作において計算されたものと感覚で作ったもののどちらの方が受け手に刺さるものなのかを考えてみる

かなりありがち話ですが、創作において受け手のリアクションや心情を上手くコントロールするために計算し尽して作るか、あくまで作り手の心の赴くままに作るか、どちらがより人の心に訴えかけるものになるのかを改めて考えてみました。


前置きですが創作作品の部分部分の細かいところではなく、作品全体としての大まかな方向性の部分についての話です。

無為とは?


まずは無為という言葉について改めて確認してみたところ、面白い解説を見つけました。

"むい‐しぜん〔ムヰ‐〕【無為自然】
作為がなく、自然のままであること。「無為」「自然」は共に「老子」にみられる語で、老子は、ことさらに知や欲をはたらかせず、自然に生きることをよしとした。"

goo辞書

この説明を読んだだけで、なんだか良い言葉に時のような感じを受けますが、無為(無駄)に過ごすという風に悪い意味でも使われる言葉です。
打算の方は単に計算と言い換えてもよさそうです。

無為から生まれる感動


例えば実際のスポーツの試合や実話をもとにしたドキュメンタリーなどはどうなるか分からない状況の中だからこそ生まれる感動。決まった結末と筋書きがないことからより感情の揺れ・感動を呼び起こすことがありますが、展開と結末をすべて考え決める必要があるフィクションではその点については少し分が悪い気がします。

ではフィクションなりの闘い方はあるのかというと、その無為の力を借りるというのはかなり有効な手法のひとつではないかと考えました。
具体的には、例えば適格で上手い表現と言葉選びで出来た考えつくされたスピーチよりも、何の打算も無い感情そのままのような偽りの無い心からの短い言葉が時に人の心を動かすことがあるように、打算(計算)がないパワフルさを取り入れる方法なんてものがありそうです。

打算は思考から生まれたもので冷静で作られた面を感じますが、対照的に感情的なものは自然に感じられるものなので、伝える相手も感情を持っているのだから人の感情に訴えかけるにはある程度、制作物のどこかしらに打算を抜きにした部分が必要になるのではないかと思います。

製作者の強い思いや感情が反映されたものは例え感動させる意図がなかったとしても、それに感化あるいは感動して涙をこぼす人もいるだろうし、逆になんだか計算が鼻についたり感動ものならお涙頂戴ものだと切り捨てられるかは、この打算的な面が受け手に見えるかどうかに関係しているように感じます。

無為は難しい?


とはいえ無為は無為だからこそ装えるものではないので、無為を装うとそれこそ打算になってしまうのが難しいところです。

例えば感動ものでよくあったキャラクタの死を取り入れるパターンがありますが、この要素を打算で入れるのは陥りやすいありがちな間違いという認識になっていることは近年その類のものが減ってきたことと関係しているように思えます。

なぜならそうなってしまうとどのキャラをどのように殺せば効果的により悲劇的になるのか。という方向にばかり向かってしまい次第により過激に、より刺激的なものを、となりその行きつく先はまるで拷問の種類を考えつくすような感動とは程遠いものになっているだろうからです。
つまり感動を生み出す部分に関して打算的であればある程、感動から遠ざかっていってしまうのではという単純な話です。

また何かの意図をもって、それを達成するための道具として感動ものを扱う場合は、あまりに感動させることだけに重きを置いたものとなり、その打算的な面が受け手に対して感動ポルノさを感じさせてしまうのかもしれません。

無為を装って無暗に人の感情を揺らす目的だけで作られたものには、必ずといっていい程その先の意図があったりしますが、こういったものが打算と見抜かれることが多いのではと推測します。

最初の方で無為自然の言葉の意味を引用しましたが作り手側の何かしらの欲が見える場合、例えばお金や名声。思想信条や特定のプロパガンダなどの多くの人の為ではなくごくごく小さい我欲に走ることがそもそも感動から遠ざけてしまうのではと推測します。

とりあえずのまとめとしては


創作だけに限りませんが何かしら伝えたいことを効果的に見せる工夫は重要だとしても、受け手も人である以上計算だけで作ったり作り手の感情的な部分をすべて排してしまうとなんだか味気ないものになってしまうという単純な話かもしれないと思いました。



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